About us
見よ、兄弟が共に座っている。なんという惠み、なんという喜び。詩編133:1
西神教会へようこそ!
神戸市西区で私たちの活動が始まったのは1990年のこと。まだ現在の会堂もなく、集まった人々も僅かでした。けれども、この20年の間に教会を訪れた方々は、阪神淡路大震災の被災者の方々や地域の子どもたちを含めて数百名に及びます。神戸にふさわしい町の教会へ―地道ながらも地域に奉仕するキリスト教会を目指して門を開き続けています。
キリスト教は聖書に基づいて、救いに至る神の知識をすべての人に伝えます。毎週日曜日の礼拝や週日の諸集会へはどなたでも自由に参加できます。また、子どもたちを対象に開かれる教会学校では常時生徒を募集しています。学校や塾ではまかなえない人生の指針を聖書から学ぶことは、特に子どもや青年たちがこれから社会に参画していく時に大きな力となります。
私たちの教会には一人暮らしをされている年輩の方も多く、健康上の理由で礼拝に出席できない会員もおられますが、信仰の絆で結ばれた仲間たちが互いに気づかい、声をかけあう交わりに支えられています。教会はどうにも敷居が高くて、と感じている方も、どうぞ思い切って門をくぐってください。お待ちしています。
改革派教会とは
「改革派教会 Reformed Church」16世紀、スイスのジュネーブで宗教改革を行ったジャン・カルヴァンの流れを汲むプロテスタント教会で、聖書を神の言葉と信じ、神の言葉によって絶えず改革され続けることを大切にする教会です。また、神の創造された世界の回復のため、社会的責任を自覚する教会です。長老派教会と呼ばれることもあります。世界で改革派の流れを汲むプロテスタント教会はオランダやスイス、南アフリカ、韓国、米国を中心に750以上の教派に及び、互いに交流を持っています。
日本キリスト改革派教会とは?
1946年4月28日に改革派・長老派教会の伝統を受け継ぎ、創立されたプロテスタント教会です。戦前日本の教会の多くは国家に従属し、戦争協力や国家神道儀礼を拒絶することができませんでした。日本キリスト改革派教会は、そうした過ちの反省を踏まえて出発しました。現在は140以上の教会と会員1万名を擁しています。神戸には教派立の教職養成機関である「神戸改革派神学校」があり、内外の教会に広く人材を送り出しています。
西神教会歴史
沿革
-
1990年 6月 9日 西区区民センターにおいて土曜集会開始(毎月1回)
-
1993年 6月20日 西区民センターにおいて主日午拝開始
-
9月12日 西神集会所(糀台4丁目10番地55)にて朝の礼拝開始
-
11月14日 教会学校開始
-
1995年 7月15日 こひつじ会開始(毎月第三土曜日)
-
11月13日 西神伝道所開設
-
2001年 11月23日 新会堂献堂式(糀台2丁目20番地7)
-
2013年 11月24日 西神教会設立式
歴代牧師
-
1993 ~ 2005年 長谷川潤(板宿教会協力牧師)
-
2005 ~ 2011年 赤石純也(板宿教会協力牧師)
-
2011 ~ 2017年7月 牧野信成
-
2017年8月 ~ 2017年12月 代理牧師・吉岡契典(板宿教会牧師)
-
2018年1月 ~ 2018年 7月 代理牧師・国方敏治
-
2018年8月 ~ 弓矢健児
牧師からのメッセージ
「十字架と復活の恵み―平和があるように―」
牧師 弓矢健児
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:19-22)
復活の主イエス・キリストは、イエスが十字架に架けられた後、逃げて家の戸に鍵をかけて閉じ籠っていた弟子たちのただ中に入って来られ、弟子たちに向かって、「あなたがたに平和があるように」と言われました。しかし、イエス・キリストは十字架に架かる前、既に弟子たちに対して、「私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」(ヨハネ14:27)とおっしゃっていました。つまり、イエスは自分を裏切った弟子たちを責めるために、裁くために復活なさったのではありません。そうではなくて、希望を失い、恐怖の中で心に鍵をかけ、閉じ籠っていた弟子たちの心に、真の平和を与えるために、彼らのただ中に入って来られたのです。
20節を見ると、この時、復活のキリストは、弟子たちに釘の跡がある自分の手と、槍で刺された跡のある脇腹をお見せになりました。どうして、そのようなことをなさったのでしょうか。それは、自分が確かに十字架に架かったイエスであることをお示しになるためでありました。しかし、それだけではありません。この時、イエスがあえて、ご自分の手と脇腹を見せられたのは、ご自分が十字架で死なれたのは、弟子たちの罪のためであったということを悟らせるためであったのです。事実、この時弟子たちは、イエスが示された手と脇腹に傷の跡を見ることによって、「喜んだ」のです。弟子たちは、死者の中から復活してくださった主イエスに出会うことによって、その心に、魂に、まさに真の喜びと平和を与えられたのです。
恐怖と不安、喪失感と罪悪感に支配されていた弟子たちの心、魂でした。しかし、主イエスは復活して、その閉じられた心の中に、自ら入って来てくださり、この世の誰も与えることのできない、真の喜びと平和を満たしてくださったのです。
また、主イエスは弟子たちに平和を宣言なさった後、次のようにもおっしゃいました。
「『父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(20:21後半~22節)
イエスは弟子たちに平和を宣言なさっただけでなく、彼らを遣わすにあたって、神の息吹としての聖霊を与えてくださったのです。
創世記2章7節を見ると、地の塵から造られた人間に神が命の息を吹き入れられたということが記されています。「人はこうして生きる者となった」とあります。この時、イエスは弟子たちに対して同じことをしてくださったのです。
暗闇と恐怖の中に沈んでいた弟子たちです。しかし、その弟子たちに対して復活のキリストは、平和を宣言し、命の息である聖霊を与えてくださったのです。それによって弟子たちは新しい命を与えられ、新しく創造され、新しく生きる者となったのです。
パウロは第二コリントの5章17節で、この恵みを次のように告白しています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
神がキリストを死者の中から復活させてくださったのは、そして復活のキリストが弟子たちに現れてくださったのは、聖霊を通して、この復活の恵みを弟子たちに与え、弟子たちを新しくしてくださるためであったのです。さらに神の目的は、この復活の恵みを、すべての人に与え、私たちを新しくしてくださるためであったのです。そのために、キリストは21節後半にあるように、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」、とおっしゃって、聖霊の息を吹きかけられたのです。
復活の主イエス・キリストに出会い、聖霊によって新しくされ、真の平和を与えられた者たちが、今度は主によって遣わされ、復活の主イエスを宣べ伝えることによって、この地上に主の復活の恵みが広がり、主にある平和が広がっていくのです。
戦争と暴力、敵意と悲しみに満ちたこの世界の現実があります。しかし、その中に真の平和をもたらすためにイエスはこの世に来られたのです。十字架と復活の主イエス・キリストにこそ、真の平和があります。